徳永康起という先生

本格整体院高久 大泉学園店の高久(たかく)です。
前回の投稿で、ハガキ道の坂田道信先生のことを書きましたが、

私の人生を変えたお勧めの本、2冊。
本格整体院高久 大泉学園店の高久(たかく)です。 月に一度くらいに、意識の高いクライアントさん達から、 「先生が一番影響を受けた本は何ですか?」 と聞かれることがあります。 そこで、私は、迷わず私の人生を変えた本をご...

坂田先生の講演会で、私が感動した話があります。それは、徳永康起という小学校教師の話です。

森信三先生が、徳永先生を「百年一出(いっしゅつ)の教育者」と評されていたそうです。

徳永先生は熊本県の歴史始まって以来、30代の若さで小学校の校長になられたほど優秀でしたが、

「教員の仕事は教壇に立って生徒と触れ合うことだ」

と5年で校長を降り、自ら志願してヒラ教員に戻った人でした。

そして、優秀な方でしたから赴任する先々の校長に嫌われて2年おきに出されています。

『出る杭は打たれる』ということですかね。

さらに、教師たちが一番敬遠している難しいクラスを受け持ち、みんなを勉強好きに変えてしまうというのだから驚きです。

受け持ったあるクラスでは、授業の前に児童たちが職員室へ迎えに来て、騎馬戦みたいに先生を担ぎ、

「ワッショイ、ワッショイ」

と教室に連れて行ったというんです。

先生、早く教えてくれということです。

なかなかこういう先生いないですよね?

さて、以下、心に残った徳永先生のエピソードです。

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徳永先生は昭和八年四月、球磨郡久米村の村立久米尋常小学校下津木分校に赴任しました。

ここの、山一つ向こうはもう宮崎県という山奥の分校です。

ある日、小さな運動場で、ドッジボールをやっていた子どもたちが、いさかいから取っ組み合いの喧嘩を始め、一人の少年が相手に馬乗りになって殴ろうとしていました。

徳永先生はあわてて止めに入り、少年の手を握って引き離しました。

少年はいつもみんなから“炭焼きの子”とけなされ、馬鹿にされている柴藤清次(しばとうせいじ)君でした。

柴藤君は両親に捨てられ、お婆さんと二人暮らし。
食っていけませんから、小学校四年のときから、焼き上がった木炭を馬二頭の背中に背負わせ、山を越えて宮崎県の米良(めら)の荘(しょう)まで急坂を上り下りして運ぶ重労働をしており、ロクに学校に行くことができませんでした。

当然成績が悪いのでみんなに馬鹿にされ、あまり風呂にも入っていないので臭く、靴や草履もはかずにはだしで、身なりもボロボロで乞食の子のようでした。

だからみんなから仲間外れにされ、すっかりひねくれていました。

それが爆発して取っ組み合いの喧嘩になったのでした。

事情を知った徳永先生は泣きじゃくる柴藤君をなだめて言いました。

「おい、青次君。今夜、宿直室に来い。君の根性を叩き直してやる」

その言葉に柴藤少年はびっくりしました。

というのは、自分を「清次」と呼び捨てにせず、「君」をつけて一人前の人間としてみているのが伝わってきます。

それまでの担任の先生はできの悪い柴藤君を端(はな)から無視していたので、炭焼きの子は先生からも相手にされないんだとひがんでいました。

でも、この先生は違うようです。

どうやって根性を治したかというと、

その夜、宿直室で徳永先生は柴藤少年を抱いて寝たそうです。

両親がいなくて、寂しくて経済的に楽ではないので爆発してしまったのを徳永先生は肌で感じていたのかもしれません。

徳永先生から目をかけられるようになり、柴藤君はすっかり明るくなって成績も上がり、みんなに溶け込むようになりました。

とはいえ、貧しい家の経済状態はよくなったわけではありません。

とうとう六年生を満足を終わらないまま卒業しました。

柴藤君は小学校を卒業すると、農家の下男として働きました。

続いて徴用工となり、さらに軍隊に召集され、満州に派遣されました。

しかし終戦となって、違法に侵攻してきたソ連軍に抑留され、バイカル湖に近いシベリアのイルクーツク州タイシェットにある悪名高い第七収容所に送られ、鉄道建設に従事しました。

タイシェットは、ヨーロッパ・ロシアと太平洋を結ぶバム鉄道が施設中の戦略的重要拠点で、鉄道の要衝です。

捕虜は、夏は蚊の大襲来に悩まされ、冬は零下四十度という信じられない気候に痛めつけられ、枕木一本ごとに死者が出るという過酷な労働でした。

柴藤さんはタイシェットのラーゲリ(捕虜収容所)、第七収容所では戦友の間を駆けまわって世話をし、みんなに希望と勇気を与えました。

柴藤さんは身を粉にして働く人で、人の世話も積極的に焼きました。

受け身に回り、人に世話を焼かれている人はだんだん気力が低下して病人になり、生き延びることができませんでした。

だからある意味では、人の世話を積極的に焼く柴藤さんの性格が幸いして、五年間もの労働を生き延びることができたと言えます。

柴藤さんは、昭和二十五年、シベリアから引き揚げました。

そして佐賀県の伊万里(いまり)に落ち着くとカマボコの行商を始めましたが、石炭不況のあおりを受けてうまくいかず、転職を余儀なくされました。

そこで軍隊時代に身につけた自動車の運転技術を生かし、昭和三十六年一月、伊万里自動車学校の教官に採用されました。

柴藤さんは結婚して家庭を持ちました。

新婚早々、警官も持て余していた四人の不良少年を自宅に引き取りました。

自分のみじめな少年時代を思うと、人ごととは思えなかったのです。

それぞれに自動車免許を取らせ、就職するまで八年間世話しました。

家庭は奥さんと、小学校三年になる息子と小学校一年の養女の四人になりました。

なぜ柴藤さんがそこまで他人の面倒を見るのかというと、理由があります。

柴藤さんはそれをこう説明します。

「私が“炭焼きの子”と馬鹿にされ、すっかりひねくれていたとき、担任の徳永先生が私を宿直室に連れて帰り、抱いて寝てくれました。それで私のひがみ根性が消えてなくなりました。今その恩返しをしているんです」

徳永先生は柴藤さんについてこう語っています。

「柴藤さんは小学校教育もろくに受けていない人ですが、百の大学を出た人以上に、人間の美しい知恵があります。天下の真人はとても謙虚で、胸を堂々と張って生きています。学歴くそ食らえです。」

「私のたった一つの誇りは、私よりはるかに高く、かつ深く生きている教え子の名前を、即座にすらすらと、何人でも息をつかずに言えることです。そしてそれ以外には何一つ取り柄のない人間です。ありがたきかな、無一物にして、しかも無尽蔵!」

また、徳永先生は昼ごはんを食べない先生でした。

なぜかというと、戦後貧しい家庭が多く、弁当を持ってこれない生徒が多数いて、昼やすみになると、弁当を持ってこれない生徒は、さーっと校庭に遊びにでかけるのだそうです。
それを知った徳永先生は、それ以来、ピタッと弁当を食べるのをやめたのだそうです。
そして、弁当を持ってこれなかった生徒と昼休み一緒に遊んでいたそうです。

あるとき、戦前の話ですが、学校で工作用の切り出しナイフが必要になりました。

みんな親にお願いして買ってもらっていました。

ところA君はそれを親に頼むことができませんでした。

A君の親は、兄といつもA君を比べて、兄に比べておまえは馬鹿だといつもいっていたそうです。

親に言いだすことができず、おとなしい同級生のナイフを盗みました。

ところがその子が「ナイフがなくなった」と騒ぎ出し、当然クラスの誰かに嫌疑がかかりました。

これはまずいと思った徳永先生は昼休みになると、「みんな外で遊んでこい」教室の外に出し、疑わしいA君の机に行き、「彼でなければいいが…」と願いながら、机のフタを開けました。

すると刃はキラキラ光って新品なのに、さやは削って墨を塗り、古く見せようとしたナイフが見つかりました。

徳永先生はA君の家庭の状況をよく知っていたので、親に頼めなかったA君の事情を思い、かわいそうになりました。

そこですぐさま自転車で学校の近くの文具店に行き、同じ切り出しナイフを買って帰ると、なくなったと騒いでいた生徒の本の間に挟み、机の一番奥に入れました。

昼休みが終わってみんなが校庭から帰ると、徳永先生はなくなったと騒いでいた生徒に言いました。

「君はあわて者だから、よく調べてみろ。なくなったと言われたら、他の者は気持ちが悪いからね」

するとその子は机の奥まで探し、教科書の間に挟まっていたナイフを見つけ、「あった!」と大喜びし、みんなに「すまなかった」と詫びました。

徳永先生が盗んだ生徒をちらっと見ると、涙をいっぱいためて徳永先生を見ていました。

先生はひと言も生徒を責めませんでした。

学校を卒業し、徴兵されニューギニア戦線に出撃したA君は、明日はいよいよ米軍と空中戦というとき、もはや生きて帰れないと思い、徳永先生に手紙を書きました。

特攻隊で両親以外に遺書を書いたのは、A君だけだったそうです。

「先生、ありがとうございました。
あのナイフ事件以来、徳永先生のような人生を送りたいと思うようになりました。
私の一生は徳永先生と出会ったことが最高の喜びです。
明日はお国のために飛び立っていきますが、最後に徳永先生に遺書を書かせていただきます。
先生はあのとき、ぼくをかばって許してくださいました。
本当にありがとうございました。
死に臨むにあたって、先生にくり返し、ありがとうございましたとお礼を申し上げます」

そして最後に書き添えてありました。

「先生、ぼくのような子どもがいたら、どうぞ助けてやってください。本当にありがとうございました。さようなら」

そしてA君はニューギニアのホーレンジャー沖の海戦で、米軍の戦艦に体当たりして散華(さんげ)したのです。

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子どものころ、優しくされた思い出というのは強烈に潜在意識に入りますね。

小学生の先生の影響力とは人生を変える力があるように思います。

すごい先生が実在していたものだと驚きを禁じ得ませんでした。

こういった先生が担任だったら、私の人生も変わっていたかも…。

などと思ったりしますが、私は悪い先生に当たったので、良い先生の素晴らしさがわかるのかもしれません。

なのでエコヒイキして、体罰を繰り返していた小学校高学年の担任だった先生に、今わたしは感謝しています。

参考文献

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